いじめについて
中島らもの青春小説「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」の中にこんな台詞があった。らもさんの同級生が自殺してそれを聞いたらもさんが言った言葉だ。"死ぬなんてバカな奴だ、人間には必ず生きててよかったと思える夜がどんな奴にもくる"と。
先月号のコラムが編集者のある方から大絶賛されたので今月は東京のサブカルタウン(僕はそう思わないが)と言われる下北沢について書こうかなんて思っていたが、僕はやはりひねくれ者の天邪鬼なのだ。とても重く答えのでないことを今月は書いてみたい。「いじめ」である。まぁそもそもなんでその「いじめ」を書こうかと思ったかと思うと、一つは自分がパーソナリティも務めるラジオ番組でその「いじめ」について見解を述べたところ異常な数のリスナー(主に10代)からのリアクションがあったということ、そして山田花子という一部でカルト的人気を誇る漫画家の「自殺直前日記」というのを読んだことが原因だ。山田花子はこの著書(出版目的で書かれたものではないが)で読者である我々に非常にドキリとさせられる名言を残している。
「バイト先で私はたいていいじめられる。この世界において、何をやってもダメな全く救いようのない絶望的な私の姿を、他者の視点で客観視して眺めているとだんだん愉快な気分になってくる。わたしはこの破滅型自虐ナルシズムに浸ることで惨めさに耐えて今もバイトを続ける」
「重大なこと、実はどうでもいいこと」
「一度も話しかけていないのに諦めちゃった・・こんな恋もある。まだ何もしないのに諦めちゃった・・・こんな人生もある」
ー厳密に言うなら本当の意味での自殺はない、自殺は大半が長い時間をかけた他殺なのだー
寺山修司は言った。
いじめは社会がある限り強者と弱者がいて、強者は弱者を酷使することが社会を生存させる必然性のようなものであるからしょうがないのではという気持ちがあったりする。でもそんな冷めた視点で(いかにそれが理知的で論理的であっても)生きるのは、自分の中で好きじゃない。好きじゃないというのは偉大な価値観で、大部分のことを好きか嫌いかで僕は判断する。それは勘というものに近いかもしれない。好き嫌いは道徳心より偉大な決定権だと僕は思うのだ。
自分自身の経験談をするなら僕はいじめを受けた側でもあり、いじめた加害者でもあり、そしていじめの傍観者でもあった。誤解を恐れずに言うなら、この人間特有の「悪意」にもとづいた「いじめ」という行為に人間社会を生きる上での必然性を感じ、上手に付き合ってきたほうかもしれない。もちろん自分がいじめてきた人がどれだけ傷つき、悩み、苦 しんだか、とうてい当事者じゃなきゃ理解できないものだろうと予想できるし、一方で自分がいじめられたときも慣れていくことでなんとか乗り越えてやろうかって妙な楽観的な気持ちにもなった。傍観してるときは、何か面倒なものにくびを突っ込みたくない、そんな思いだけで、心の中で偽善にも似た同情を感じることはあった。また自分はたいしたことではないと発した言葉が相手を傷つけ、相手を知らず知らず追い込んでいたなんていうこともあった。神経質で繊細なものにとって僕は無神経なバカであったし、自意識が高くなれば他人に傷つけられたと自分を悲劇の主人公へとおいやるバカでもあった。僕は自分自身に腹が立つ。ムカついてくる。怒りは表現の原初体験だ。それをバイタリティに変える、くそったれとつぶやき、怒りながら前向きに歩き始める。
そうしてタフになったのかもしれない。明日学校へ行くのがイヤでイヤで逃げ出したくて。でもそんな自分がムカつくからまた歩く。そんな途方もない作業を繰り返しているのかも知れない。ある人は自分にはそこしかないから、その目に見える世界だけしかないから、逃避の究極の形である自殺を選ぶのかもしれない。でも僕は死ななかった。死ねなかった。希望?そんな安易なものではない。僕はセックスをしたことがなかった。セックスがしたかった。だから死ななかった、ただそれだけ。読者諸君は拍子抜けしただろ。でもそんなもんでいいのである。だってまだ生きてる。セックスした後もまだまだ生きてる。まだだ、まだだと思ってる。楽しいことを探してる、諦観もなく、往生際悪くただただ俺は生きている。もう駄目だは始まりのサインだと嘘ぶく。タフになったのだ。鈍い大人になっちまっただけかもしれない。鼻で笑っちまうような青春パンクの歌詞も、まぁ安易な正義感を若者に植え付けさせ、それで弱者をかばうものが増えればいいんじゃないのって思う。奇麗事でもかまわないじゃないか。
死ぬのはいつでもできる。でも生きるのは今だけだ。 だから生きようと思う。「いじめ」に苦しむもの、逃避する場所のないもの、耐えろとは言わない、転校や転職でもいい、何か対処作を考える。相手を諭しても、人間の「悪意」はやっかいで複雑だったりする。だからできるだけ最善を尽くして、現状を死ぬ以外の逃避でしのぐことだ。山田花子は日記の中で他人を卑下したり、不幸を願ったりはしない(しないんだよ!)。そして人間とは本当に優しい生き物なのか?その疑問を抱え、答えをださず一方的にさよならした。誰も言わないなら言うよ。きっと人間は優しいはずだ。僕は思うよ、自分のような何のとりえもなかった人間がこうやって君に語りかけれる、そんな場所を提供してくれる人がいる、そして楽しみに待っていてくれる人がいる、それを思うとき僕は心底生きててよかったって思うんだよ。優しい気持ちになれるんだ。
今、お前にはそういうのがあるからいいじゃないかと思った人、適当なこと言うじゃねぇと思った人、あなたの怒りがあなたのバイタリティになりますように。
(「シティ情報おおいた」掲載「トウキョウブラッド」より)



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