強い気持ち強い愛
もうすぐ2010年が終わる。
私が東京来たのが
1991年だから、
もう20年もたつ。
いろいろいろいろいろいろいろいろやってきた。
やってやって
なんとか生きてきた(笑)
2005年
仕事をなくした我々ダイノジ。なかったね〜仕事(笑)
まぁ今年も相当だったけど(笑)
家賃15万円なのに月の給料18万円みたいな。
保険払ったら残金ゼロ。
もうね、笑うしかなかった。
ははは。
そうだそうだ
2005年のこと。
暮れの単独ライブの打ち上げ、その代わりに渋谷の青い部屋で初めてDJイベントをやった。
そのまま、rockin'on主催のフェスティバル
COUNTDOWN JAPAN
FES05/06の大晦日、の22時、DJという形で初めて出演した。
のちの嫁も
客席にいた。
彼女妊娠していた。
踊りまくるお客さんを観ながら、私の頭にはいろんな場面がコラージュされて再生された。
最後の曲
小沢健二の
「強い気持ち強い愛」
なぜか用意した巨人帽を指差し(笑、今だに意味わかんない。巨人愛とかけたんだよなぁ〜)、
キョトンとしたお客さん相手に私は微笑んだ。
この「強い気持ち強い愛」の何が好きかって、人生とは過酷で辛辣なことの連続で涙を流すことも時に僕らにはあるが、それでも日々の中、祈ったり、希望を持ったり、そして他人と心を通わせることで、救われたり許されたり、生きていくこととはそういう気持ちや愛を真摯に伝えて、伝わっていく連続なんだと言ってるようで好きなんだ。
そして俺はまたニヤリと笑った。
そうだ。
俺、
家族ができるんだ、と。
2005年の頭。
義父が殺された。
いや、正式には父親ではない。いわゆる母にとっては内縁の夫というやつだ。
その人は中野さんという名前で、母子家庭の大谷家に、私が8歳のころ、突然現れた。
中野さんはタクシー運転手だった。
家出して補導されたとき帰りは中野さんのタクシーの中だった。外ばかり見てる私に中野さんはニコニコ笑いながら
大丈夫大丈夫と言った。
私がリンチにあって血だるまになった高校三年のとき、病院にタクシーで連れて行ってくれたのも中野さんだった。
中野さんは焦りながら早口で
大丈夫大丈夫
と言った。
芸人なって、テレビなんか出てないのに、私らは無謀にも故郷凱旋ライブを企画した。それがどんなにかっこ悪いことかわかっているが、母に自分の仕事を見てもらいたかったのだ。
チケットはもちろんさっぱり売れてなかった。
佐伯駅に迎えに来た中野さんのタクシーの中は私たちダイノジのライブのチラシをコピーしたものが張り巡らされていた。
大丈夫、大丈夫、お客さん来ますよ、
中野さんはバックミラー越し、私にそう言った。
その中野さんが2005年の頭、中野さんの実弟に殺された。正月、酒に酔った中野さんの弟は口論の果てに、包丁で心臓をひとつき。
即死だった。
私は今だに狂気を暴力にしか転換しないやつが好きじゃない。殺すことはねー。殺すことはさ。
母の狼狽は激しく、電話越しでひたすら泣き続ける母に私は何か言葉をかけてあげることもできなかった。
私はその時、テレビの生放送に向かった。
久しぶりのテレビ。
成人式の生中継。
張り切っていた矢先のことだった。
結局一度も笑いをとれずに生放送は終わった。自信のあったネタも会場に集まった新成人に全く受け入れられなかった。
当時はスベッたことをネタにする余裕もなかった。
エンディングで手を振りながら、涙がこぼれた。
なんで泣いたんだろうか。
惨めで惨めでたまらなかった。
そして、実の弟に殺された中野さんが可哀相で可哀相で。
寝ようと思っても中野さんとの思い出とつまんなそうに私らを見る成人の連中の顔が交互に現れては消えていく。
奥歯をギュッと噛んで布団に潜った。
母は中野さんと籍をいれてなかったので遺骨をうけとれなかったが、せめてもと墓は母が借金して建てた。
同情するしかなかった。母が不憫でしかたなかった。
子ども二人、育てあげて、大学まで行かせて、今は芸人、しかも全く売れてない。母に申し訳ない気持ちとどうでもいいやという諦観が入り混じった不思議な気持ちだった。
夏。
私は久しぶりに実家に帰った。
母は背中を丸め疲れきっていた。
祖父の介護も加わっていた。
中野さんの墓参りに行った。
蝉の鳴き声がやかましい佐伯の山林にある質素な墓の前で手を合わせた。
この町に対する愛憎
が込み上げてきて吐き気をもようした。
いいことばかりじゃなかった。悪いことばかりでもなかった。
私が見てきたこの町の風景は私にいつもいつも辛辣な現実を気づかさせてくれる。
私は絶体絶命だったのだ。芸人としての仕事がないこと。
母に言えなかった。
墓参りを終え、母の手を握りしめた。
そんなことをしたのは初めてだった。
私は聴こえるか聴こえないかの声量で
大丈夫大丈夫
とつぶやいてみた。
東京で暇を持て余す私に気分転換にとrockin'onの兵庫慎司さんがDJをしないかと誘ってくれた。
DJって、と一度断りのメールを送ったあと、やっぱりやりますとメールを送り返した。
夏に初めてお芝居の戯曲を書かせてもらった。
そのタイトルが
「サマーソルジャー」
今も付き合いのあるタカアンドトシらが出てくれた舞台。
「サマーソルジャー」
サニーデイサービスで一番、いや夏の歌で一番好きな曲のタイトルだった。
これを大音量で聞いてみたかった。
いや、違うな。
本当はギャラが魅力的なだけだったのかもしれない。金なかったもの。
ポツポツと集まったお客様の前で、CDJの使い方を5分だけ教えてもらい、緊張しながら曲をスピン(笑)してみた。
DJはまったくうけなかった。お客さんは終始無反応で、一番後ろのテンガロンハットの太った女性のお客さんから「芸人かえれ〜やめろ〜」とヤジられた。
唯一心配になって見に来てくれた相棒とのミニコント風のやりとりだけがうけた。
うけないと悔しいからそっから研究して、再度違うイベントに出させてもらったとき試してみた。
みんながちょっとだけ踊りだした。
それはなかなか面白い経験だった。
必ず遊びに来る相棒とのやりとりも段々と様になり、そのうち相棒がダンスや流行ってたエアギターをやりだした。そのたんび急に踊ったり暴れたりするお客さんを見るのが楽しくなってきた。だんだんとみんなの踊りが激しくなってきたとき、ちょっとネタっぽいことやってみるかとか、ボードでサビを教える作業をしてみたり。
ここにいる連中は狂気を暴力でなく踊ったり、叫んだり、歌ったりすることに転換していた。
笑い顔、笑い顔、笑い顔。
それは人間だけの特権だ。
そんな頃に子どもができちまった。
金はないけど産むことにした。
相手は19歳の女だ。
ずっとずっと芸人ダイノジを応援してくれてたファンって奴だ。
ファンと結婚するとかどうかと思うと周囲から散々言われた。
正直どっちでもよかった。
外野の声などどうでもよかった。
今より金もなくなるが、産むと言ってくれた彼女に賭けたかった。
環境を変えるとか、そういう最もそうな理由もありそうだが、そういうことじゃない。
女房は大学に行っていた。大学の先生は休学を勧めたが、二人で話し合って退学することにした。
向こうの親にはこっぴどく叱られた。当たり前か。親戚の人なんてわざわざ酔っぱらって電話してきてずっと説教だ。
ごもっともですと思いながらも少し傷ついた。
名古屋の彼女の実家に挨拶に行った。
お店を予約した。場所は中日ドラゴンズの選手なんかも食事に来る小料理屋を知り合いが予約してくれた。
名古屋は雨だった。
店で母親と待ち合わせた。大分から来た母は寒ぶりを一匹まるこど抱えて店の前でずぶ濡れになっていた。
私と母は店に入るなり土下座をした。
前日、怒る練習をしていたという嫁のお父さんは、しばらく黙って一言。
よろしくお願いしますと言った。
私に父親ができた。
私はなかなか頭をあげない母親の横で私の母親はこの人なんだと改めて思った。
2005大晦日、初めてのDJを終えた私は音楽の仕事も真剣にやってやろうと思った。どの芸人にもできない了見でやってやろうと思った。
私は得体の知れないエネルギーをいただいた。
私は嫁の腹をさすりながら大丈夫大丈夫とつぶやいた。
大丈夫、そう、
オールライト。
プレスリーが初めて吹き込んだロックンロールナンバーもそんなタイトルだ。
ずっとずっとずっとロックンロールは惨めな自分にそれでいいんだと、大丈夫だと囁いてくれたじゃないか。
ふと思った。
この子が自分で私の息子として生きることを選んでくれたんだと。
逆指名のような。
この子が自分に伝えてきてくれているような気がした。
私がこの子の父になるのでなく、この子が私を父にしてくれるんだと。
私には父親がいなかった。
私たち家族には中野さんしかいなかった。
その中野さんならきっと産めよといいそうな気がした。
大丈夫、大丈夫と言いながら。
あの日のように。
長い階段をのぼり 生きる日々が続く
大きく深い川 君と僕は渡る
涙がこぼれては ずっと頬を伝う
冷たく強い風 君と僕は笑う
今のこの気持ちほんとだよね
[小沢健二 強い気持ち強い愛]
2010年が間もなく終わる。
これを読んでいる皆様にいいことが沢山ありますように!
いつもいつもいつもいつも本当にありがとう。
大丈夫、大丈夫。
君は絶対大丈夫。
メリークリスマス!
幸せを祈るよ
2010年12月24日
大谷ノブ彦







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