母子家庭パンク
母子家庭パンクス」
ブルーハーツの「パンクロック」という曲にこんなパーツがある。
“僕、パンクロックが好きだ。中途半端な気持ちじゃなくて やさしいから好きだ”
とにかく苦手だった。パンクロックが優しい?そんなの欺瞞と傲慢だ。不良が本当はいい奴みたいなご都合主義が他人とコミニケートできない自分にとってうらめしくて仕方なかった。
“あれあれあれ!!???えーっと、ダレだっけ?こいつ?えーっと・・・”
新宿歌舞伎町の真夜中、ポケットに手を突っ込んだ私をホスト連中が囲う。好奇の視線には好意的な空気を感じるものの名前は出てこない。
念願の「アメトーーク」出演時のくくりは“売れてないのに子供いる芸人”もちろん売れてないのは分かっているのだが、売れてないという冠をゴールデンに出演させるパラドックスで批評的なお笑いを生み出すスタッフの力量に感嘆した私にとって、こうやって大衆、マスの中のマス、変に流行や快楽に敏感なホスト連中に名前を知られてないのは残念でならなかった。こんな長文のコラムをやらせてもらっているのも何かの縁、ここでダイノジのエアギターできないほう、ギャグをやらないほう、そんな私、大谷ノブ彦のパーソナルなことを知ってもらいたいなと思う。そう、今回は私の履歴書だ。
私、大谷ノブ彦は1972年6月8日山口県下関に生まれた。ちなみにこの6月8日は宅間が小学校を襲撃し、秋葉原に加藤が車で突っ込んだ日だ。自分にとって幸せなはずの誕生日に、戦慄の殺人事件が偶然この日に起きたことは痛ましいことだが、逆に私はこんな日になった6月8日に生まれた自分は常に痛ましいこの事件を頭に置きながら、全く逆のこと、こんなことが2度と起こらないよう、面白いこと、笑えることを常に気をつけながら生きようと決意したもんだ。
生まれたすぐに大分県佐伯市に引越しした。しばらくして親父に捨てられた。母は毎日心中をくわだてた。寸前で未遂になって助かった。
やがてスナック勤めをした母。母が帰ってこないことで毎日泣いた。慰めてくれるのは漫画やアニメや映画、そしてバラエティ番組。笑っていたかった。憧れはビートたけし。うそ臭い、きな臭いものを茶化し、その姿からは色気と狂気をプンプンに感じることができた。
私は狂気を凶器に変えてしまう安易な奴らが大嫌いだ。狂気を侠気に変える男が好きだ。それは憧れにも似た気持ちだ。とにかく僕は面白くない男だった。今だって胸を張って俺は面白いぞと断言できるわけではない。でも昔よりはまだマシになったと自負する。中学校1年生のころ、何かをしてみたくなった私だったが、非行に走る勇気もなく、女を抱く器量もなかった。テロをしたかった私がとった行動、それはタンポンを水に浸して天井に貼り付けていくということだった。これは笑えなかった。誰も笑わなかった。廊下一面に張り付いたタンポンを見ながら校長と教頭は頭を垂れた。中学校2年生、春に人気絶頂のアイドル岡田有希子さんが飛び降り自殺をした。その直後の死体、その写真が写真週刊誌に掲載された。クラスの連中がみんなで読んでいた。それを見たときにどうしていいかわからない気持ちになった。とにかく便所でゲロを吐いた。人の悪意の生生しさに気持ちが悪くなって仕方なかった。私は翌週から毎週日曜に佐伯市から電車に乗って1時間半、大分市に向かった。バックにはナイフを2本忍ばせていた。当時流行しまっくていたビーバップハイスクールに感化されたヤンキーにカツあげでもされたら刺してやろうと思った。私は不良でもない。男気があるわけでもない。ただただ空気の読めない、虚勢をめいいっぱい張った自意識の高い思春期の男だった。中学校3年生になって大地と出会った。そこで私はパンクロックを知った。それは狂気を音楽に転化したものだった。こんなものがあるのか、私は大変興奮した。これはビートたけしの“ソレ“に似てるなと思った。パンクロックからTHE WHOを知り、そこからエルビスコステロやレッドツェペリンやアリスクーパーに夢中になっていった。それからロックバンドを沢山聴いた。
18歳で東京にやってきた。目的はなかった。ビートたけしが一時入学していた大学に通いながら、自分はなんのために生きているのか考えた。アルバイト先にたまたま興味深い話を耳にした。バイト先の先輩の同級生にあのおぞましいコンクリート詰め殺人事件の主犯者や共犯者がいるというのだ。私は詳しく話しを聞いた。そのとき思った。これだ、と。東京に出てきた意味、これだと。次の日からその主犯者や共犯者の住んでいた周辺をパトロールした。バックには包丁をもって。主犯はまだ出てきてないが、共犯の連中は何人か出てきている。見つけてぶっ殺そうと思った。それが私の東京に出てきた意味だ、と。毎日のように綾瀬に向かい銭湯に入って身を清め、周囲をパトロールした。そう、私は普通に狂っていた。そんなものが正義であるわけではない。安っぽいヒロイズムと狂気をとてもつまらないものに転化したことが許せなかった。
だが、そんなことを毎日繰り返している日々でたまたまお笑いを観てしまった。若手のネタライブ、そして立川談志の落語。人とはなんなんだろう。毎日笑って暮らせればいいのに、突然つらいことや突然やりきれない悲しい出来事が頭の上から降ってくる。それをゆっくり噛み締め、受け入れていくことでしか生きていけない。人生ってそういうものならば、笑いとはなんと優しい浄化方法なのだろう。私は猛烈にお笑い芸人に憧れた。ここで死ぬのが一番だと思った。それは自分に与えられた笑えない狂気の正しい転化方法のような気がした。初めて舞台で自分の恥部を笑ってもらったとき、なんと優しい世界だと思った。それは中学3年生、初めて出会ったパンクロックのようだった。そうパンクロックとは優しい。狂気をそういう風に転化すればいいんだとささやいてくれるものだった。私は母子家庭であることを誇りに思った。ネタの宝庫だ。環境や境遇のせいにするより、人はタフにネタにすればいいのだ。私は母子家庭パンクスだ。ブルーハーツの「パンクロック」が頭で鳴り響いた。
ホストに囲まれた私はほくそ笑んだ。「売れてないのに子どもいる芸人のダイノジですよ!」「そうだそうだ、ダイノジだよ、ダイノジ!売れてないんだよ」「あぁ売れてないね」ぞろぞろとホストが集まりだす。いや、売れてるわ!この瞬間だけ!
そう、全てネタだよ、ネタ。
いいだろ?俺は芸人なんだ、お笑い芸人なんだ。




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